松村謙三関係文書の魅力(1)
松村謙三関係文書について
歴史家がその人物について語るのではなく、その人物が語る言葉に耳を傾け、その言葉でその人を語らしめること。それが人物研究の基本である。歴史家が日記や手紙、インタビュー記事や回顧録を好むのはそのためである。また、選挙の記録の類、折に触れて残した漢詩や短歌、また子供時代からの愛読書などもその人物に関するいろいろな情報を伝えてくれる。つまり、政治家研究の基本となるのは、その人物の残した記録である。
さらに、雑誌や新聞に書かれた記事も、その真偽はともかく、一つの手がかりに他ならない。そうした記録とともに、その人物の周辺の記録を渉猟することも必要だ。彼の家族、友人、政敵、パトロンetc。どんな人物のどんな見方も、目当ての人物の性格や心情、そしてその時々の行動の理由を考察するうえで参考になる。
筆者が長年整理し、調査している松村謙三関係文書は、こうした多様な記録を擁する優れた記録群である。松村謙三(1883―1971年)の日記はもちろん、家族宛書簡、家族からの書簡、友人や政治家、中国要人からの書簡、演説原稿、選挙資料、演説テープ、掛け軸、揮毫などからなる1500点を超える資料である。
松村は、現在の富山県南砺市福光に生まれ、旧制高岡中学卒業後、東京専門学校(後早稲田大学)に進学し、報知新聞記者、福光町議、富山県議を経て、1928年からは立憲民政党に所属する代議士となった。
<写真は、早稲田卒業時の集合写真。濱本なほ子氏提供>
以後、松村と言えば、農政に対する深い理解を背景とした農政の振興や農地改革、また中国への深い愛情と知識に裏付けられた日中関係への取り組み、そして、大隈重信の衣鉢を継ぎ、多様な政党が織りなす議会政治の発展に尽くした人物として、富山県のみならず日本全国からの支持を集めた。もっとも、筆者が研究室に運び込んだのはその一部であり、松村記念会館(富山県)、松村家(同上)にもまだ資料や蔵書、掛け軸の類が残されている。そうした一連の記録の魅力を紹介するのが、本シリーズの目的である。
松村が受け継いだもの
政治家は一代では生まれないと言われる。政治家は何代にもわたる「家」の伝統の結晶なのだという。また政治家はその「土地」の風土が生むものだともいわれる。江戸には江戸の、京には京の、越中には越中の政治家が育つと言われれば、そうだという気がしてくる。
松村謙三が北日本新聞社の記者に語った聞き書き『三代回顧録』は、「私の生まれたところは、富山県の福光という加賀の国境に近い一万戸ほどの土地であるが、子供のころの環境を思うと、多くの人から非常な感化や深い印象を受けている」と書き出されている。登場するのは、福光や富山にゆかりのある人物が多い。土地も豊かで信仰心にも篤い砺波地方の人々も、また松村謙三を愛した。<『三代回顧録』の原稿の一部。松村寿氏提供>
松村が回顧するように、祖父清治、父和一郎、親戚の谷村家一族からの影響や援助も極めて大きな影響があった。谷村順蔵は改進党系の政治家と付き合い、和一郎も越中改進党の島田孝之との親交があり、資金援助者でもあった。松村はそうした影響下で「改進党系の流れをくむ政治家として終始するに至った」と回顧する。
謙三が政治家となるまでの記録は、松村文書において最も豊かな部分の一つである。周辺資料も多く残されている。例えば、謙三の叔父にあたる谷村一太郎の書簡などがそうした例の一つである。
谷村一太郎は、今の大和証券の全身となる藤本ビルブローカー銀行の頭取であり、関西の実業界の実力者であった。謙三の政治的決断には、しばしば一太郎が相談にあずかっている。民政党から代議士に出馬する際にも、謙三は一太郎に相談に言っていることが日記からうかがえる。
興味深いのは、面白いことに、政友会のホープと言われた横田千之助に謙三を紹介しようとした形跡があることだ。松村文書の中に、一太郎の書いた紹介状が残されている。千之助は1925年に死去しているので、謙三が横田に会ったとすれば、それ以前の事である。謙三が出馬したのは1928年。それ以前には、政友会から出馬する可能性もあったという事だろうか。<写真は横田千之助宛谷村一太郎紹介状。松村寿氏提供>